ドラマの『半沢直樹』の中に出てくる印象的なシーンのひとつに、傷心の半沢直樹がどこかの展望台へ行き、眼下に広がる美しい夜景を見下ろす場面がある。
たぶん、六甲あたりから見下ろす夜景だろう。それならぼくも見たことがあるが、夜の底に広がる街の輝きは、神秘的な生物のように顫え、浮かび上がるようである。
このドラマの原作となる小説『オレたちバブル入行組』を上梓したのは二〇〇四年のことで、実際に『別冊文藝春秋』に連載していたのはその少し前のことになるが、当時のぼくは小説作法で苦しみ、試行錯誤を繰り返していた。
作家になって何作かの作品を発表したものの、出来には納得できないし、何かが違う。だけど、何が違うのかわからないのである。
自分で納得していないのだから当然、売れるわけもないし、本を出しても初版どまり。まさに、「作家になることより、作家であり続けることのほうが難しい」とよくいわれる状況に直面していたのである。いまから考えるに、この頃が作家生命最大のピンチだったと思う。
ちなみに、その頃のぼくは、小説というものを、真っ白なカンバスに描く絵のようなものだと考えていた。
そこに何を描くのか、どう道筋をつけるのか。作家は、そのすべてを自由に決めることができるのだと。
だが悪戦苦闘していたあるとき、こうした考え方は間違っているのではないかと思えてきた。
そもそも、登場人物とは動かすものではなく、動くものではないか? 登場人物を操り人形だと思っているのは作家だけで、読者にとっては生身の人間だ。ぼくは登場人物が本当にいる人だと思って書いてなかった。だから、小説がつまらないのではないか。
そこに気づいた瞬間、ずっと自分の中でわだかまっていたものが溶けていった気がした。小説とは、人を書くことである。人を書くというのは、その人生を描くことである。人生を描くためには、その人に対するリスペクトがいると思う。
以前のぼくであれば、『半沢直樹』の夜景を見て、ただ美しいとだけ思っただろう。
だけど、いまのぼくは、その窓の灯りのひとつひとつに、そこで生活する人の人生に思いを馳せることができるようになった。
灯りの数だけ生き様がある。そう思って見下ろす夜景には、それまで感じられなかった圧倒的な生の営みの、厳然たる美しさがある。
小説が表現しようとしているのは、その窓の灯りの下で繰り広げられている様々な人間ドラマだ。作家であり続けることは難しいかも知れないけれど、作家であり続けられるのなら、こんな楽しいことはない。
不思議なもので、もがき苦しんでいた二〇〇四年に出版した本は、『半沢直樹』に続いて、次々とドラマ化されることになった。
十年以上前の作品に今頃になって光が当たるなんて。それを書いているときは暗中模索だったれど、いまようやくぼくの部屋にも、ほのかな灯りがともった気がする。
作家。1963年岐阜県生まれ。慶應義塾大学卒。
『果つる底なき』(講談社文庫)で第44回江戸川乱歩賞、『鉄の骨』(講談社文庫)で
第31回吉川英治文学新人賞、『下町ロケット』(小学館文庫)で第145回直木賞を受賞。
主な作品に、半沢直樹シリーズ『オレたちバブル入行組』『オレたち花のバブル組』(文春文庫)『ロスジェネの逆襲』『銀翼のイカロス』(ダイヤモンド社)、花咲舞シリーズ『不祥事』『銀行総務特命』(講談社文庫)、『空飛ぶタイヤ』『ルーズヴェルト・ゲーム』(講談社文庫)、『シャイロックの子供たち』『民王』(文春文庫)、『ようこそ、わが家へ』(小学館文庫)などがある。
趣味は、ゴルフ、写真、フライフィッシングなど。
うっかり受けたものの、困った末に書きました。
エッセイなので、気楽に読んでください。
あきらめと開き直り。