モロッコのタンジールに、「ムジカ・デ・アンダルシア」という店がある。たぶん、アンダルシアの音楽という意味なのだが、看板とかそういうものはない。だから、果たしてこの名前で良いのか、本当のことは、よくわからない。それに店というよりも、小屋みたいな、細長い八畳くらいの四角い空間で、入口には湯沸器があり、左右の壁際にベンチがあって、奥の壁には、リュート(ギターの原形みたいな楽器)や、太鼓、ヴァイオリンなどの楽器がぶらさがっている。
ここには地元のおじさんが集まってきて、壁の楽器を勝手に取って演奏するのだった。店の中には集っているおじさんの数人が宮廷で演奏している写真などがあって、彼らの中には立派な音楽家もいるのだが、小屋に集っている感じは、近所の寄合いにやってきて、どうでもいいことを駄弁っているおじさんたちなのだった。客には、ミントティーがふるまわれる。メニューはこれしかない。それを飲みながら、おじさんたちが楽器を演奏するのを聴く。
今年の九月、ぼくは五年ぶりに「ムジカ・デ・アンダルシア」を訪れた。ここはカスバの中、丘の上の広場にあって、穴の空いた城壁からは海が見下ろせ、ジブラルタル海峡をはさんで、向こうにスペインが望める。しかし広場に行くまでには、メディナという迷路のような道を行かなくてはならない。小屋におじさんが集まってくるのは夜なので、ぼくは五年前の記憶を頼りに、クネクネ曲がる暗い道を進んでいった。以前来たときは、なんだかわけのわからない奴につきまとわれたりして、ちょっと嫌な思い出があった。その男は「おれは歯が全部ないから金をくれ」とか「家族はみんな病気で寝ているんだよぉ」とか言って、大きな声で泣き出すのだった。今回は、そのような人につきまとわれることはなく、なんとか広場にたどり着くことができた。
広場の真ん中には、カスバミュージアムというのがあり、ここはかつて刑務所で、建物の道に面した下方に鉄格子がある。街灯はあるのだが、薄暗くオレンジに光っているだけで、隅っこの壁にもぞもぞ動く黒い人影が見え、なにやら叫び声が聞こえていた。
なんだか困った人がいるなと思っていると、向こうの方から、楽器の音が聞こえ、白い小屋の窓から灯りが漏れていた。
「ああ、あそこだ」、それまで、人気のない、暗い迷路のような道を歩いていたから、窓から漏れてくる灯りと音楽は、とても安心できた。
中には、おじさん達が楽器を抱えて、ミントティーを飲んでいた。ぼくが顔をのぞかすと、入って来いと手招きする。ベンチに座り、ミントティーを飲みながら、おじさん達の奏でる音楽を聴いた。客は、ぼく以外に誰もいなくて、あげく、ギターを渡されて、たいして弾けるわけでもないのに、一緒に演奏した。それから、二日連続で通い、数日間違う街に行って、タンジェに戻り、また店に通った。暗い広場の向こうにある白い小屋から漏れてくる灯りと音楽は、いつもぼくを安心させてくれた。
日本に戻ってきて、毎晩眠る前に、また行きたいと、あの灯りを思い返している。
日本の劇作家、小説家。祖父は文学座代表を務めた演出家の戌井市郎。
東京都調布市出身。1995年、玉川大学文学部演劇専攻卒業。
同年、文学座付属研究所に入所。翌年に文学座研究生に昇進し12月に退所。1997年に牛嶋みさをらとともにパフォーマンス集団「鉄割アルバトロスケット」を旗揚げし、脚本も担当している。
2008年に「新潮」に発表した『鮒のためいき』で小説家デビュー。2009年に小説『まずいスープ』で第141回芥川龍之介賞および第31回野間文芸新人賞の候補になる。
2011年に『ぴんぞろ』で第145回の芥川龍之介賞候補、2012年に『ひっ』で第147回の芥川龍之介賞候補、2013年に『すっぽん心中』で第149回芥川龍之介賞候補、第40回川端康成文学賞受賞。
2014年に『どろにやいと』で第151回芥川龍之介賞候補、第36回野間文芸新人賞候補。
窓の灯りというのは、暖かいものであって欲しいです。蛍光灯やLEDではなく、やはり電球の光りが良いと思いました。
旅先でぶらぶらしているとき、なんだか寂しいぞ、という気持になっても、窓の灯りで、気持が暖かくなれれば幸いです。
眠れないときは、眠らないでいいやという、あきらめの気持を持つようにします。
翌日の昼間、一生懸命起きてると、次の日の夜はぐっすり眠れます。