Vol.23 マグノリアの庭 小野正嗣

フランスに留学中、クロードとエレーヌという夫婦の家に5年近く居候した。オルレアンにある二人の自宅には、春になると美しいマグノリアが花を咲かせる大きな中庭があった。その庭で本を読み、詩人であるクロードと文学について語り合ったことは忘れがたい大切な思い出である。

帰国後もときどきクロードとエレーヌのうちに戻る。家に入る前に、二人の自宅に接する建物の4階の窓を通りから見上げる。そして僕はその部屋に暮らしていた日々を、スーダンの紛争地ダルフールから逃れてきた友人Kさんのことを懐かしく思い出す。

何度も危険な目に遭いながら、アフリカから地中海を渡りフランスにやって来たKさんが、クロードとエレーヌに出会ったのは、ロワール川の河岸で野外生活をしていたときだ。その出会いが、難民申請を却下されて不法滞在者として社会の周縁部でひどい生を送ることを余儀なくされていたKさんの運命を変える。さまざまな紆余曲折はあったものの、二人の助力があって、Kさんは滞在許可証を得ることができたのだから。

クロードとエレーヌは長年にわたって、苦境にある移民や難民を自宅に受け入れてきた。コートジボワール、カンボジア、イラン、スーダンといった国から来た人たちが、このマグノリアの庭のある家でその人生の一時期を過ごしてきた。二人の家に暮らすとは、そうした記憶を共有し、そこにささやかながらも僕自身の痕跡も加えるということだ。

もっとも僕の残した現実的な痕跡なんて、一度クロードと植え替え作業をした小さな生け垣くらいのものだ。しかし、もともとスーダンの農村育ちのKさんは、僕などとは大違いで実に器用だった。

ある日、久しぶりにオルレアンに戻ると、室内の壁がきれいになっている。指摘すると、Kさんだよ、とクロードは嬉しそうに答える。庭の草刈り、植木の剪定、建物のペンキの塗り替えなど、Kさんは自分にできる範囲で、クロードとエレーヌに恩返しをしようとしていたのだろう。

一度Kさんに頼んで、クロードと僕で、かつてKさんが身をひそめていた場所を再訪したことがある。ロワール川に架かる鉄道橋の下の空き地、そして小さな林のようになった中州。冬はきっとものすごく寒かったはずだ(クロードがKさんのためにシュラフを持っていったのを覚えている)。なのにKさんが片言のフランス語で語るのは、いつまでも暮れない夏の気持ちのよい日に中州を楽しげに散歩する人々の姿であり、お祭りで打ち上げられた美しい花火が暗い水面に映る様子なのだ。

しかしそれはKさんの孤独感を募らせはしなかったか。僕は想像する。不法滞在者であるがゆえ、人目を避けて暮らすKさんは、夕暮れどきねぐらを離れて街をあてどなく歩く。最近開通した路面電車の停留場のそばの階段を降りて、ふと気づく。ここは、自分のことを何かと気にかけ何度か家に呼んで話を聞いてくれたあの親切なフランス人夫婦の家がある通りじゃないか!

顔を上げると、4階の窓に灯りが見える。Kさんはまだ知らない。その部屋に暮らす日本人留学生が帰国したのち、代わりに自分がそこに暮らすようになることを。そしてもちろん、クロードとエレーヌのことを「フランスのお父さんとお母さん」と呼ぶようになることも。

PROFILE

小野正嗣 おのまさつぐ

小説家、比較文学者、フランス文学者、立教大学准教授。大分県出身。
1996年、新潮学生小説コンクール奨励賞。2001年、「水に埋もれる墓」で第12回朝日新人文学賞受賞。2002年、『にぎやかな湾に背負われた船』で第15回三島由紀夫賞受賞。2003年、「水死人の帰還」、2008年、「マイクロバス」、2013年、「獅子渡り鼻」で芥川龍之介賞候補。
早稲田大学坪内逍遙大賞奨励賞を受賞し、『獅子渡り鼻』で第35回野間文芸新人賞候補。2015年、「九年前の祈り」で第152回芥川龍之介賞受賞。

小野正嗣近影

COMMENT

「窓の灯り」というテーマを受け、エッセイに込めた思い

「窓の灯り」と聞いて、どういうわけか、フランスのオルレアンで僕がかつて暮らし、僕のあとはスーダンから来たKさんが暮らすことになった部屋の窓がすぐに思い浮かびました。

このエッセイを読まれた方へ

ご自分にとっての、心にあかりがともるような記憶を大切にされてください。

ご自身の眠れない、眠らない夜に欠かせないモノ・コトは?

とくにありません(寝つきがよいので)。