両親が共働きだったぼくは小さいころ、親が帰ってくるまで祖父母の家で時間をつぶして、陽が沈みだすと頃合いを見計らい弟と一緒に家に帰るのが常でした。
祖父母の家からうちまでは、歩いて二、三分の距離。もし両親が帰ってきていなくとも、鍵はあるので困りはしません。ですが、最後の曲がり角にやってくるまで、ぼくは不安に包まれていたものです。
両親が帰っていれば、何の問題もありません。が、そうではなかった場合。夜に蝕まれはじめた家に子供二人は広すぎて、寂しさに襲われてしまうのです。
その両親がいるか否かを知るサインが、我が家の小窓でした。
灯りがついていれば帰ってきている。いなければ帰っていない。鍵を開けてみるまでもなく、その小窓さえ見れば分かるのです。
恐る恐る見た小窓が暗かったとき。心の拠り所を失ったような、ひどく孤独な気持ちになりました。
黄色い灯りが滲んでいたとき。ほっとするとともに、「いやいや、別に誰もいなくてもよかったんだけどね」などという強がりを心の中で呟きました。
ぼくにとって灯りというのは、両親の存在と直結していたものだったのだなぁと、いま振り返ってみて思います。それが原体験となって、自分は灯りを見るとほっとするようになり、特に暗闇の中の灯りには、人一倍、惹かれてしまうようになったのではないか……。
道を行き交う車の灯り。キャンプ場にともるランタンの灯り。祭りの屋台の灯り。寒空の下のイルミネーションの灯り。
自分はきっと、そのどれもに無意識のうちに両親の面影を感じていたのでしょう。子供のころの両親との記憶が深層心理で湧き返っていたのでしょう――。
電車に乗ると、たくさんの窓の灯りが目に入り、ごとごと揺られているだけで数々の安らぎに触れることができます。
夜。ひたすら建物の灯りを見るためだけに電車に乗って巡るなんていうヘンテコなツアーがあれば、きっとぼくは参加するだろうなぁ。電車の中の照明は、落とし切って。真っ暗な電車というのも、たまにはいいもんです。
出発駅は、町の中心。たくさんの灯りを愛する人たちを乗せ、電車は秘密めかしてひっそりと動きはじめます。
煌びやかな町の灯りは、まだまだ働きつづける人たちのパワーを感じさせてくれるでしょう。郊外に向かうにつれて建物も次第に低くなって一軒家が目立つようになってくると、温かい気持ちになることでしょう。もうどこをどう走っているのか分からない。ただ心地良い灯りに身を任せ、電車はごとごと走ります。
心が温かくなったころ、なんだかぼくは急に実家が恋しくなります。あのころから二十年。ぼくも両親も、ずいぶん年をとりました。
気がつくと、あれだけいた人々が周囲にいません。隣にいるのは、弟ひとり。
がたん、と電車が止まって扉が開き、ぼくらは外に出てゆきます。ふらふらとさまよい歩くうちに、なんだか見慣れた景色が現れて、ここは祖父母の家からの帰り道なのだと悟ります。
ぼくは不安になりながらも家路を歩き、とうとう曲がり角までやってきました。見たくない気持ちを押しやって顔を上げると、我が家の小窓には灯りがひとつ。ほっと胸を撫で下ろしながら、ぼくは勢いよく玄関扉を開きます。そして言うのです。ただいま、と。
まあ、別に誰もいなくてもよかったんだけどな、という態度を装って。母親が魚を煮込む音が聞こえます。
灯りを見てほっとするのは、なぜだろう。その疑問への、自分なりの回答です。
灯りに対する、あなたの原体験は何ですか?
眠れなくとも目を閉じつづける。