編集者の夜は長い。終電に間に合えばよい方で、終電を逃し深夜まで働くこともしょっちゅうあるし、下手をすれば明け方まで徹夜作業……なんてことも珍しくはない。編プロに勤務していた駆け出しのころ、私はいつもそんなふうに働いていた。
激務といえば確かにそうかもしれないが、ちっとも苦痛ではなかった。編集者が遅くまで働かねばならない理由は、するべき仕事が終わらないからだが、終わらない理由は本というメディアに関わろうとするみんながみんな、極限まで時間と精神を費やして働こうとうするからである。著者は締切直前まで必死に「早く世に出たい」と暴れる言語たちを押さえ込んでは文字列に起こし、編集者はそうして出来上がる原稿をねばれるだけねばって待ち、出来上がった後はそれらをより読みやすくなるようにする作業に専心する。デザイナーは編集が済んだ原稿を大急ぎでより美しく整え、印刷所は完成した入稿データをもとに機械の限界へ挑むかのような速度で版をつくる。誰も彼もがギリギリまでよいものにしようと懸命であるために、すべての進行がギリギリになり、ギリギリまで働くことが運命づけられ、そして、夜が明ける。
明け方の編集部内の空気が、私は好きだった。勤務する編プロは飯田橋にある雑居ビルの一室にあり、周囲にも似たような雑居ビルが立ち並んでいて、とても見晴らしがよいとは言えなかったが、それほど広くない室内の北側と西側の二面すべてが窓となっているせいか、夜が終わり朝になるにつれ、窓辺が静かに白々と輝いていくのである。
そのとき、私は部屋の照明をそっと消す。同僚がいない、あるいは作業中ではないことを確認し、蛍光灯の光から身体を解放する。
机が窓辺に近かったため、私の机上は昇り始めた朝陽に染まる窓の光をじゅうぶんに浴びることができた。すると、それまで私が睨みつけていたはずのゲラが、校正紙が、微かに輝きはじめるのである。その瞬間が、私は大好きだった。
書籍の紙はたいてい白い。どんな編集者もそれは知っている。クリーム色がかっていたり、ブルーやピンクの色味が乗っていたりしても、それを私たち編集者は白と呼ぶ。その白は疑われることなく、蛍光灯などの人工の照明下での色味を前提として考えられている。多くの本はそのような条件下で読まれるだろうから、それは編集者として間違った姿勢ではない。
でも、朝日に染まる窓辺の、細やかな灯りを浴びた校正紙の色味を、ゲラの仄かな白さを、私は忘れたくないと思う。そんな状況でページを繰る人はそうもいるまいと知りつつも、明け方の編集部で知ったその優しい光を記憶のどこかに焼き付けておきたいと願う。白い海に泳ぐ小さく黒い文字たちの、普段見せない色を知ることは、本づくりに関わる人間として、決して無意味ではないと信じるからだ。
今でも私は著者としての自分の原稿や、編集者として携わった本の校正紙などを窓辺に運び、照明を消した明け方の部屋でそうやって確認することがある。「普段見せない色」は単なる感傷ではなく、「見落としていた色」の示唆でもあるからだ。すると不思議なことに、もっとよい表現を思いついたり別のアイデアが閃いたり……気づいていなかった、とんでもない誤植などを発見できたりする。窓の灯りを頼りに本を編むのも、たまには悪くない。
絵画などが特にそうですが、色から感じる美しさというものには、多分に「光」の存在が影響します。紙媒体においてもそれは同様なのですが、編集者はつい「人工の光」にとらわれてばかりで、「窓の灯り」、窓からもたらされる一筋の光を忘れがちなところがある……ような気がしており、自戒の意味も込めて書いてみました。
目の保護という観点からすると、やはり適切な人工の照明が読書においては分があるのかもしれません。が、たまには自然光で読むことをしてみてください。画集や漫画はもとより、小説などでも意外な見え方がしてくる……かもしれません。
やはり本です。眠る前には必ず本を読みます。ページをめくるうちに睡魔が襲ってくることもあれば……刺激を受け、興奮に燃え、やにわに立ち上がり原稿に向かい出すこともあります。眠るにせよ眠らないにせよ、本のおかげで夜を私は愛することが今日に至るまでできています。