詩人のまどさんは窓がお好きだったから「まどさん」だったらしい。写真史にまつわる本などをひもとくとよく語られている、むかしニューヨーク近代美術館で開かれた写真展で、「鏡と窓」展というのがあって、作品を「鏡派」と「窓派」にわけて展示したという。おおざっぱにいうと、自分の内面を表現したのが「鏡派」、外の世界を表現したのが「窓派」、という感じだったとおもうけれど、まどさんの詩は、この分類でいくと、やはり圧倒的に「窓派」とおもう。手にとりやすいまどさんの詩集に、ハルキ文庫版『まど・みちお詩集』があって、その巻頭におかれた「やぎさん ゆうびん」という章は、代表作「やぎさん ゆうびん」「ぞうさん」からはじまって、以下、動物や虫たちをモチーフにした作品が並んでいるのだけど、「コオロギ」「ナメクジ」とだんだん小さくなっていき、やがて「ミズスマシ」や「アリ」があり、「カ」にいたっては3篇も収録されている。まことにちいさいものたちをよく見つめ、かれらに思いをはせ、寄りそった詩人だった。そんなまどさんが窓について書いた詩はなかったかと、ぱらぱらとめくっていたら、「ねむり」という詩に目がとまった。
まんなかの連で、
せかいじゅうの
そらと うみと りくの
ありとあらゆる いのちの
ちいさな ふたつずつの まどに
しずかに
ブラインドが おりる
といわれ、はっとする。私たちは、窓をみだりに割って歩いたりしない。あたりまえだけど。どの窓もたいせつにしなくては。
しかし、アリやカはいったいどんな夢を見るのか。かんがえていたら眠れなくなった。眠れない夜には、私は自転車に乗って月へゆく。空に浮かぶ月ではなく、月島である。家から10分くらいで着く。途中、大きな橋をわたる。橋というのは不思議にどの橋もわたると空気がガラリと変わる。ましてや月の島にわたされた橋だ。ここには高層マンションが立ち並ぶ、いっぽうで古い家並みも残っている。時空がすこし歪んでいる、月に流れる時間のようだ。もうひとつ橋をわたって対岸のほうへ出ると、お気に入りの公園がある。あった。それは映画『空気人形』に出てきた公園で、川沿いに、堤防を背に、月島の高層マンション群がそびえている。公園とはいうものの、遊具などは一切なく、ただの原っぱで、まんなかにポツンと、ベンチが置かれている。ただそれだけ。あとは、あたかも舞台照明とでもいうように、ベンチのかたわらに置かれた外灯。それがスポットライトのようにベンチを照らして、訪れ、ひとときそこに腰かけるひとたちの、その誰しもを舞台俳優のように見せる。あのベンチは、たぶん窓を眺めるためのベンチだった。高層マンションの生活なんて、月の生活とおなじくらい私には想像できないから、あの窓のなかの生活を想像したりできないし、しない。だからあの窓はただ窓としてあって、そこでは窓は窓そのものだ。その豊かさ。その詩的であること。詩が窓ならば、窓だって詩だし、あらゆるいきものに窓があるならば、窓そのものもまた、いきものなのだ。そんなことを考えているうちに眠くなる。(詩もいきものも、眠くなる。)空にはもうひとつの月が浮かんでいて、あれは鏡か、それとも窓か。
割れない窓はないからこそ、窓というものを大切にしたいと、書きながらおもいました。
まど・みちおさんの詩集と、是枝裕和監督の映画『空気人形』。未読・未見の方は、ぜひ!
ジャズの名盤ですが、ジェリー・マリガンの「ナイト・ライツ」というアルバム。1曲目に置かれた表題曲「ナイト・ライツ」は、窓明かりをそのまま音楽にしたような曲ですが、マリガンはバリトン・サックスの奏者なのですけれど、ここではピアノを弾いていて、その一音一音で、一つ一つの窓に灯りをともしていくような、やさしくてうつくしい演奏を聴かせてくれます。私たちも、ときにべつの楽器に持ち変えてみるとよいかもしれません。