家の灯りに囲まれて暮らしていた。
私が子供時代に住んでいた街はニュータウンで、建て売りの一軒家しかなかった。部屋の中から見える窓も、習字の帰り道を歩いているときに通り過ぎる窓も、ぜんぶ「家族」が灯している窓だった。
私は、その窓の灯りがあまり好きではなかった。耳元でそっと「どうですか、あたたかいでしょう?」と言われているみたいで薄気味悪いのだ。明るく光る窓の中から、子供の笑い声やテレビの音が微かに聞こえ、夕飯の匂いが漂い、その中で「家族」が暮らしているのだった。「家族」が暮らす隣の窓も「家族」、その向こうも「家族」、「ひとり」はどこにもいなかった。光の中にいるのは「家族」という生きものなのだった。わたしはそれが、なんだか怖かった。
子供のころから、深夜まで小説を書くことがよくあった。夜中に窓の外を見ると、そこに並ぶ窓はもうほとんど灯っていなかった。健全な「家族」たちは眠りについているのだった。暗い窓を見ると、ほっとした。今は、「家族」という奇妙な生き物ではなく、一人一人切断された人間たちの時間なのだと思った。
高校へ入ると同時に、東京へ引っ越してきた。そこはビジネス街のど真ん中だった。灰色と白の背の高いビルが立ち並び、どの窓も夜遅くまで光っていた。窓からいくら眺めても、光の奥に誰がいるのかわからなかった。
深夜になっても、光は消えなかった。整然と並ぶ光は「家族」の窓とは違う意味で奇妙だった。その窓の中で人が働いているのか、誰もいないのか、人影が見えてもそれが年老いた人間なのか、自分と同じくらいの年齢の人物なのか、さっぱり伝わってこないのだった。
大学を出て、そのまま東京に住みついた。灯りが消えない街に慣れ、昼より夜のほうが眩しいと思うことに違和感がなくなった。私自身も東京の光の一つになって仕事をするようになった。深夜、自宅のパソコンデスクで、または喫茶店やファミレスで、黙々と小説を書くのが自分の日常になった。
深夜のファミレスの向こうのテーブルではカップルが深刻な顔で何かを話していて、その隣では終電を逃した学生が眠そうに雑談している。目の前では会社員風の男性がパソコンに向かっており、私はノートを開いて小説を書いている。どんな関係なのかわからない人たちや、何をしているのか読み取れない人たちもたくさんいて、それが好奇な目で見られることのない空間だ。光の中で私たちは混沌としている。
店の中で突然怒鳴る人がいても、皆、たいして動じることはなく、時間は流れていく。私たちがいくら光を汚しても、窓から見える四角い光は変わらない。そのことが不思議と心地よいのだった。
ファミレスでの仕事を終え、店を出て深夜に外を歩くと、街全体が光っているのを感じる。いつのまにか、「家族」でもなければ、切断された「ひとり」でもない、大きな生きものの一部になっている。自分の足音や呼吸が、光にまみれた騒がしい「夜」を構成している。「家族」よりずっと混沌とした化け物の部品になっているのに、私はなぜかそのことに安堵している。
家に帰り、再びパソコンを点けて小説を書く。夜はまだ続いている。窓の外でも正体不明の光がたくさん光っている。闇より光の量が多い夜の中で、子供時代と同じように、発光する画面に向かってキーボードを叩き続けている。
子供のころから、夜の方が「光」の存在を強く感じるので、そんなことを考えながら書きました。
エッセイを読んでいるということは、多くの場合、光の中にいるということ(もしくは発光する媒体に照らされている状態)だと思うので、それがどんな光なのか教えて欲しいです。
空想と毛布です。