何年か前に、都心の公園でイルミネーションのイベントがあったときに、わたしはずっとある窓を見ていた。公園を囲む高級マンションの一室で、その大きな窓は青く明滅していた。公園で星空を模して光っている発光ダイオードの青色とよく似た透明な青色が、冷たい冬の夜空を背景に断続的に光ったり陰ったりする。
音楽に合わせて移り変わってゆく目の前の光のイベントよりも、わたしは十階あたりのその窓が気になって仕方なかった。そこに人の姿は見えない。部屋にいる人は、テレビか映画を見ているのだろうか。高級マンションだし、大画面のテレビやプロジェクターがあるにちがいない。ワインでも片手に、大きなソファにゆったり身を埋めて眺めている誰かを、わたしはぼんやりと思い浮かべる。一人なのか、もっといるのか、それすらもわからないのに、想像の光景だけはやけにくっきりしてくる。
あんなふうにずっと青色に光っているテレビ番組や映画ってあるかな……。イベントが終わるまでの一時間、その不思議な青い光はずっと明滅し続けていた。
わたしはそんなふうに、窓が気になって、見てしまう。歩いていても、電車に乗っていても、高速道路を走る車からでも、遠ざかっていく窓を目で追ってしまう。
「その欲って、なに欲やと思う?」。
先日、大阪の書店で開催したトークイベントで、津村記久子さんとそんな話で盛り上がった。家やビルの窓を見て、その中を知りたくなって、つい想像してしまう。食欲、性欲、自己顕示欲、いろんな「欲」があるけれど、この気持ちはどう呼べばいいのだろう、と。でも、実際に覗き見したいわけじゃないよね。そうそう、それはない。
自分の小説では、ある家が気になって覗こうとする登場人物を書いたことがあるけれど、こんな人がいたらちょっと困るなー、と信条を推測しながら書いていた。
だけど、もし話を聞けるんやったら、絶対聞きに行くよね。うんうん、今までの人生とか、その部屋に住むことになった経緯とか、聞きたい。
そう話しているうちに、はっきりと気がついた。
窓の中の暮らしを、わたしはいつも知りたいと思うけれど、一方的に覗き見したいのではない。そこにいる人の、話を聞いてみたいのだ。
できれば、その人が選んだ家具や食器や、店の内装や仕事の書類に囲まれて、その人の表情や特徴のある話し方を感じ取りながら、一時間くらいでいいからしゃべってみたい。波瀾万丈な人生とか、びっくりするようなエピソードとかなくてもよくて(あったらあったでもちろん楽しい)、ただそこにいる人の、誰かと似ていたとしてもやっぱり誰とも違うその人だけの感じを、できごとを、その人の声で聞いてみたい。
自分じゃない誰かと、そこに、すぐそばにいるけどまだ知らない人と話して、その人が見ている景色を知りたい。
きっとわたしは、小説を書いているときもその欲望みたいなのが常にある。子供のころから、遠くに出かけてもどってくるとき、川を渡る鉄橋から高層ビルやマンションの窓の灯りを見ると、自分の街に帰ってきたという気持ちになった。なんとなくの安心感に包まれながらも、いくつも並ぶその光を見るたび、あの中に、一つ一つに、それぞれの家族や人生が詰まっている、という感覚が迫ってきた。ぜんぶ、違う! その圧倒的な事実に、今も驚き続けているから。その気持ちがいつまで経っても、自分をざわつかせ続けるから。
灯りのついている窓は、そこに誰かがいる証し。たいていは話すことも出会うこともないその誰かに、なんとなく思いを寄せながら生活している自分も窓の灯りの中の人の一人なんだな、と思いながら書きました。
読まれた方の暮らしも聞いてみたいです。
テレビです。ぼんやり見ているとそのうち眠れる。テレビの画面は窓に似てますね。