カーテンのない部屋に住んでいる。転職で1年半前に上京し、この部屋に住み始めたころの僕は、忙しさでパンクしそうな日々を過ごしていた。すこし特殊なサイズの窓だ。注文してから数日待たなければ、この窓に合うサイズのカーテンは手に入らない。届けてもらうにしても、平日は真夜中まで部屋に帰ってこないから受け取ることができない。できるなら休日は眠っていたい。部屋は2階だし、窓はすりガラスだから、寝顔や裸をだれかに見られることもない。あ、ベッドもないじゃないか。先にベッドを手に入れよう。もうソファーで眠るのはこりごりだ。明日も仕事だし。と、理由を並べてカーテンを頭の隅に追いやっていった。
そして、忙しさの落ち着いた現在に至るまで僕は、カーテンのない部屋に住んでいる。カーテンレールには洋服がぶら下がっている。なぜだろう。自分でもよくわからない。何やってんだ、と思う。他者を家に招くと、カーテンを買ったほうがいいと必ず言われるし、僕だってカーテンのない部屋に招かれたら、同じことを言うだろう。新聞紙を貼り付けておこうかと思ったことはあるが、友人に相談したら、新聞紙ではなくカーテンを買ったほうがいいと言われたので、やめておいた。たまにこの部屋以外で眠るときは、カーテンがあるおかげですごく眠りやすいなあ、と思う。注文して受け取る時間がいまはあるけれど「いまさらかよ」と僕のなかの1年半前の僕がつぶやく。逃したチャンスを取り戻すために行動するのは見苦しいことだ、かっこ悪いことだ、と思っているのかもしれない。そういえば、昔の恋人に「わたしのことが本当に好きなら追いかけてきて」と別れを告げられたときも、追いかけなかった。追いかけられなかった。無様だとしても追いかけていたら、今とは違う人生を送っていたのだろうか、と眠れない夜は考えてしまう。
ところで、この部屋のすりガラスの窓は、あらゆる種類のひかりを変容させて、僕の目に届ける。朝のねむそうな水色のひかり、昼のはりきったような白いひかり、夜の街灯のやさしそうなオレンジ色のひかり。ひかりだけではない。あらゆる種類の空気を変容させて、僕の皮膚に届ける。すべてを濡らすような夏の空気。すべてを貫くような冬の空気。すべての目を開かせるような春の空気。すべての目を閉じさせるような秋の空気。休日はひかりと空気に励まされながら、ときに邪魔されながら、ノートパソコンという小さな窓を灯し、自分のなかに渦巻いている言葉や言葉以前の何かを吸わせる。多くの場合それらは、短歌という31文字の短い詩になる。
短歌を書くときの僕も、すりガラスの窓のような存在になっているのだと思う。無数にある外部の情報を自分のなかに取り込み、選び、削ぎ落とし、磨いて、あなたに届ける。自分を挟むことによって、情報はそのままではなく、変容したものとなる。その変容したものがあなたの心を照らす短歌であったらいいなと思っている。照らすのもいいけれど、あなたの心を灯す短歌であれば、もっといいなといつも思っている。あなたが部屋で、僕が窓であるならば、ぼくらの間にカーテンはいらない。
窓とは裸の付き合いをしておりますので、外側からではなく内側から見た窓について書いてみようと思いました。
僕の部屋に来て、窓のサイズを測り、ぴったりのカーテンを買ってきてください。
忘れる力。