Vol.52 「今夜も韻が踏まれない」

洛田 二十日

深夜、アパートの前まで来れば今日も隣の窓が明るい。

それすなわち、私とラッパーとの開戦を意味していた。

メラメラ燃えるこの闘志。覚悟を決め、自室の鍵を開ける。

上京して十年。大学を卒業してもなお、私は四畳半のアパートに油汚れのごとくこびりついていた。十年。長い時間である。大抵の戦争は終結するし、大抵の金魚は死ぬし、大抵のSPEED は「一夜限りの復活!」を繰り返す。

そして大抵の隣人は引っ越していく。

一人目は同じ大学に進学してきた青年であり、卒業と同時に彼は去った。二人目、三人目に至っては半年もしないうちに去っていった。なぜか。ちょうど私が番組制作の現場に奉公をはじめた頃だ。それに伴い私には夜、急に絶叫するお茶目な癖が身についたが、そのせいだろうか。いや。例えば「全国の空き缶で出来た家の軒数」を調べるよう要請された夜などは「ばあ、ああ!」と鹿威しと同じペースで吠え続けたが、苦情は一件も来なかった。「山月記」の李徴か何かだと思われていたのだろう。

だからこそ、ラッパーの登場は不意打ちだった。深夜に帰宅してみれば、久しく灯っていなかった隣の窓に明かりが点いている。そういえば大家から「隣人 かわる」と「チチ キトク」ばりのメールが入っていたことを思い出す。自室に入る。既に呪詛のごときリリックとリズムが充満していた。まさかラッパーだったとは。しばし呆然とする。「空き缶で出来た家」をストリートビューで探し続けるという奇跡の単騎待ちをやめ、そのリリックに耳を傾ける。私はラップに疎い。『学校へ行こう!』で得た知識しかない。それでも私は新しい隣人のラップに強烈な違和感、下手すれば残尿感を禁じ得なかった。なぜか。違和感の正体を探るべく、書き起こす。

俺はまだまだ負けらんねえ 甘くはねえぜ この東京

そびえる出口 よじ登る 朝から雨 メラメラ燃えるこの闘志

甘くはねえぜ この東京 俺はまだまだ負けらんねえ

韻を踏んでいない。ならば何なのだこれは。「無駄にエモい天気予報」ではないか。阿呆である。私が阿呆である。空き缶ハウスも見つかっていないのに、私は何を律儀に書き起こしているのか。

最悪なことに、このラップらしきものは「実はアリバイづくりのため音声だけ流していたのです」くらい続いた。我慢の限界に達した私は否応がなしに咆哮するも、その声は「甘くはねえぜ この東京」に掻き消されることとなる。

それから一年が経過した。相変わらず隣人の顔は知らないままであるが、帰宅時に隣の窓の灯りを確認するのが日課になっていた。明かりが灯っていれば「メラメラ燃えるこの闘志」が湧いてくる。薄壁の向こう、ラッパーは今日も韻を踏みそうで踏まない。リリックに合わせて締め切り間近の私が咆哮する。ラッパーがさらに調子を合わせる。誰も望んでいないグルーヴが生まれる。ラップと咆哮。いつのまにか私たちは奇デュオと化していた。

とつぜん、ラッパーがいなくなった。

深夜に帰宅しても窓に明かりが灯っていることがなくなったのだ。引っ越してしまったのか。いや、どうやら彼は、夜勤バイトを始めたらしい。なぜだか「甘くはねえぜ この東京」がリフレインする。彼のリリックが途絶えた部屋で、私は今日も「間に合わねえ!」と咆哮している。また勝手に夜が白む。そっと窓を開ける。朝から雨だ。

PROFILE

洛田 二十日

1990年、新潟市生まれ。早稲田大学文化構想学部卒業。
2017年、「桂子ちゃん」で第二回ショートショート大賞を受賞。
2018年、『ずっと喪』でデビュー。現在、好評発売中。
同時に「手売り作家」としての活動も開始。
自身のSNSに受注があればその足で注文者の元へ向かう。
天久聖一『書き出し小説大賞』『バカはサイレンで泣く』に参加。
スピッツと大喜利が好き。長編が書きたい。

洛田 二十日

COMMENT

「窓の灯り」というテーマを受け、エッセイに込めた思い

窓の灯りは存外に饒舌で、家主の預かり知らぬところで存在を証明し続けます。
また、SPEEDの箇所はZONEの方が良かったかもしれません。

このエッセイを読まれた方へ

十年間住んだ部屋の窓に雨戸(シャッター)がついていることを引越しの日に知りました。
皆様、どうかお気をつけください。

ご自身の眠れない、眠らない夜に欠かせないモノ・コトは?

最寄りの川と爆笑問題