Vol.54 「窓の中の自然」

金子 雅和

山で映画を撮ることが多い。私が映画を作り始めた学生時代から一貫してきたこのスタイルには、理由がある。山の中は植物が繁茂し、動物が潜む気配があり、水が流れ、無数の石が転がり、とにかく情報量が多いのだ。生きているものも死んでいるものも分け隔てなく存在している。一般的に映画は、俳優が物語に準じ演技するのを見るものだと考えられがちだが、画面に映っているのは当然、俳優だけではない。その背景には様々なテクスチャーがあり、葉が風に揺れ、衣装の色彩が光を反射し、各々が息づいている。それら総体が映像の力であり、世界を構成しているのは人間以外のもののほうが圧倒的に多い。そのことを表現したいと、常々思っている。

既に9年前の夏になるが、WEB配信用の短編映画企画の撮影をある山奥で行った。沢沿いの、舗装もガードレールもないうねうねした砂利道を車で数十分登ったところにある堰堤下の水辺で、ラストシーンを撮った。夏の山は天候が安定しない。その日も午後になると乱れ始め、ただでさえ鬱蒼とした水辺は昼とは思えない暗さに急変し、滝のような雨が降り出した。

スタッフと出演者は車内に逃げ隠れた。近くには釣りで来ていると思しき一台のRV車が停まっていたが、降り出しから暫くすると静かに走り去っていった。やがて雨は止み、とつぜん狐の嫁入りでも始まりそうな美しい光の時間が訪れた。私たちは大急ぎで日暮れまでの撮影を行い、無事クランクアップとなった。

機材を積み込み、我々を乗せたハイエースは雨後の砂利道を慎重に下り始めた。幾重にも続くカーブを曲がっていくと、約5m下を流れる沢に何か大きなものが見える。先ほどのRV車が、腹を見せて眠る獣のように裏返しで転がっているのだ。私たちは直ぐ、車内に人が残されていないか確認したが誰もいなかった。周囲を見渡しても人影はない。携帯は圏外なので、どうすることも出来ない。その時、山の作業から帰る地元住民が通りかかったので通報を託し、私たちの車は再び走り出した。一本しかない人里への帰路を歩いているかも知れないと目を凝らしたが、結局出会うことはなかった。そもそも私たちの誰もが、その人物の顔さえ、一度も見ていなかった。のちに調べた限り、同日同場所で大きな事故の記録はなかったので無事だったのだろう。しかし、その日はもやもやしたまま、夜の高速道路で都心へ戻った。

いつもは山間のロケ地から帰るとき、都心に近づくとあまりにも多くの家々やビルの光があることに驚かされる。同時にほっとする部分もある。だがその夜は釈然としない気持ちを抱えていたためか、感じ方が違った。

高速から見える窓の灯りの中には、先ほどのRV車の持ち主のように一度も顔を見ることのない人々が存在しているのだな、と漠然と思った。いや、実は灯りが点いているだけで、誰も存在していないのではないか。

山の中には、生も死も混交した圧倒的な密度があり、それが人に畏れの感情を抱かせるように、都市も一度として会うことのない無数の存在が集まって出来ている。不意に私は、たくさんの窓の灯りの群れが、ひとつの巨大な有機体のように思えて戦慄した。

都市も大きな目で見れば、自然そのものなのかも知れない。

PROFILE

金子 雅和

1978年東京都生まれ。
青山学院大学国際政治経済学部卒業後、古書店で働きながら映画美学校で学ぶ。
のち企業VPやCM等の現場に携わる。
2016年、長編監督作『アルビノの木』がテアトル新宿を皮切りに劇場公開、世界9ヵ国の映画祭でこれまでに17受賞。
18年春には池袋シネマ・ロサで金子雅和特集が3週開催され好評を得た。

金子 雅和

COMMENT

「窓の灯り」というテーマを受け、エッセイに込めた思い

スクリーンもまた、暗闇の中に開かれた大きな四角い「窓の灯り」だと言える。
それを外側から眺める感覚と、その内側にいるような体験を共に味わえるのが映画館だ。
映画作りに携わっている身として、そんな「窓」の内側と外側、つまりはフィクションと現実の境界線が、なんとも曖昧なものであると感じた時のことを書いてみた。
実際、この世界はとても曖昧で、映画によく似ていると思う。

このエッセイを読まれた方へ

「窓の灯り」に温かみを感じる人がいる。一方で、それに疎外感を感じる人もいるだろう。
人の意志や想いばかりが強く主張される都市に住みながら、そこからの疎外感や疲れを
抱えて生きている人は、少なからずいると思う。
都市での人の営みも、風や雨やこの世にいない者たちの気配のように、実はけっこう
融通無碍なものではないか。そんな風に考えるとちょっとだけ、ほっとしないでしょうか。

ご自身の眠れない、眠らない夜に欠かせないモノ・コトは?

眠れない夜には本と映画とアルコール、眠らない夜はひたすらコーヒー。