私が憧れの人を前にワクワクしながら質問したのは、もう何年前だったか。
影絵作家、藤城清治先生は、私が子供時代のヒーロー、ケロヨンの生みの親であり、セロファンをカッターで細かく切り、重ね合わせ、後ろから光を当てることによってステンドグラスのように発光する絵画を生み出す世界一の芸術家だ。そして、齢九十五になる現在も精力的に無限に作品を作り続けている偉人だ。
冒頭の質問は、私が会いたいと切望しラジオ番組にゲスト出演してもらった時のものだ。
先生の作品の中で都会に建つ夜のビルを描いたものがある。屋上に観覧車が乗っている。
私はその絵を例に出し、「先生は、自然も美しく描くけど、人間が創り出した文明の風景も美しく描きますね」と言った。「そうねえ」と笑い、「好きですねぇ。あの夜に見るビルの窓の灯りね。細かい星のような光の一つ一つの中に実は人が住んでいて、生活があって、それぞれの人生があるんだなぁと思うと、楽しいでしょ。想像すると楽しいでしょ」それから何年か後。私が書いた小説を先生が影絵の絵本にしてくださった。私にとってこれほど幸せなことはなかった。出版の直前、東日本大震災が起きた。出版記者会見は震災後少したった頃。原発が停止され計画停電が実施され、日本中でイベントが中止になる自粛ムードの中で行われた。その頃色んなアーティストが効率を優先させた文明を築いたそれまでの日本人を否定するコメントをしていた。国内でも、海外でも。
出版会見で並んだ私と先生にも当然、原発についての質問が多くされた。先生は少しウンザリしていて、横にいる私はそんな先生の様子を面白がって見ていた。『もしも今までのように電気が使えなくなっても影絵を創りますか?』「そりゃ創りますよ。どうなったって影絵は出来ます。私はね。終戦後、東京が焼け野原になってなぁんにも無くなった場所で、何とか子供達を喜ばせたくて、瓦礫の中を探して木切れと屑の鉄や紙なんかで工夫して、人形を作って蝋燭の火で照らして地面に影絵を映したんです。それが私の創作の始まりですよ。あの頃東京はまっ暗だった」憮然とした表情で言った。 私は不謹慎ながら可笑しくて笑い、 記者に言った。「このジイさんには何言ったって通用しないよ」
その後。個展を無事に終えた先生は、すぐに東北にデッサンをしに行った。何日も何日も通って被災地を周り、デッサンをした。福島原発近くの立ち入り禁止区域、 放射線量が多い場所には全身防護服を着て入り、何時間もスケッチをし続けた。線量計のアラームが鳴ってもその場を動こうとしなかったそうだ。当時八十八歳。出来上がった作品群を観れば言葉を失う。雪が降り積もる中にある津波で打ち上げられた漁船。奇跡の一本松。そして朽ち果てた福島原発。その手前の川。戻ってきた鮭。生い茂るススキ。「被災地の傷ついた風景は、ただ痛ましいのではなく、その向こうに未来がある。それを表現したかったんです」先生は相変わらずだ。この国はもう終わり。と、亡国を嘆く表現者達に真っ向から立ち向かうようで、可笑しくなる。改めて思い出すのはあの言葉だ。「夜のビルの窓の灯り。あの光の中に人が住んでいて、それぞれの人生があると想像すると楽しいでしょ」
想像することは楽しいということ。
是非藤城清治作品を観てほしい。
本。