「出し惜しみをするな!」
私が最初に就いた担当編集から、口を酸っぱくして言われた言葉だ。創作を長く続けていくと、いつの間にか慣れが生じ、妥協を繰り返すようになる。そうなったら最後。作家としては、死んでいるも同然だ—というのが、その担当編集の考えだった。特に、私のように新人賞を受賞してのデビューではなく、自費出版上がりの才能が乏しい小説家は、全てを出し切らなければ、存在価値がない—とも言われ続けた。
しかし、デビュー間もない私にはあまり実感が得られなかった。原稿に悪戦苦闘し、自分の原稿に自信が持てず、担当編集から「いい加減にしろ!」と怒られるまで、推敲を続けていたからだ。そんな状態だったので、慣れや妥協とは無縁で、余力を残せるような状況ではなかった。深夜まで原稿を書き、ふと窓に目を向けると、ガラスに映る自分の顔にぎょっとしたものだ。全てを出し切った結果として、まるで死人のように生気がない。そのくせ、口許だけは満足そうに笑っている。これでは、まるで幽鬼ではないか—と自嘲した。
それから、がむしゃらに書き続けてきた。デビューから十年ほどが経過し、作品数も三十を超えてくると、色々と変化が起こり始めた。一番大きかったのは、世代交代だ。最初の担当編集は、定年で勇退し、どんどん若い世代の編集者に引き継がれていき、気付けば年下ばかりになっていた。そんなある日、急ぎの原稿を何とか書き上げた私は、片付けをしながら、ふと窓に目をやった。窓には自分の顔が映っていた。それを見て愕然とした。ずいぶんと血色が良かった。それはそれで悪いことではない。ただ、表情が抜け落ちていたのだ。原稿に対して、何の思い入れも抱いていない無表情な顔—。全てを出し切っていないことは、明らかだった。あれほど口を酸っぱくして言われていたのに、いつの間にか原稿を書くことに慣れ、締め切りを口実に、無意識のうちに妥協を繰り返してしまっていたらしい。決められた作業を、何の感慨もなく黙々とこなす—果たして、これは創作と呼べるだろうか?読者に、胸を張って全てを出し切ったと言えるだろうか?急ぎの原稿であったなどというのは、読者には一切関係ない。どんな環境で書いたものであったとしても、一つの作品ということに変わりはないのだ。私は、書き終わったはずの原稿と再び向き合った。
改めて原稿を眺めてみると、そこかしこに妥協の痕があった。こんな中途半端な状態を、良しとしてしまっていた自分を激しく叱咤し、原稿の修正を続けた。きっと、最初の担当編集は、この瞬間を見越して私に忠告していたのだろう。今の私を見たら、「だから言っただろ!」と激しく叱責するに違いない。
原稿の修正が終わったときには、窓から朝日が射し込んでいた。眩しさに目を細める。全力を出し切った心地いい疲労感を覚えつつも、完成した原稿に満足して小さく笑みを浮かべた。まだまだ発展途上ではあるが、それでも、現時点の自分の全力を出し切ったという実感があった。
これからも、窓を見る度に、「出し惜しみをするな!」という言葉を思い出すことだろう。
自由に感じてくれたら嬉しいです。
初心忘るべからず。
探究心。