私は、眺めのいい部屋が好きだ。
物書きになってから二十年が経つが、午前中はほぼ毎日、部屋に籠りっきりでカタカタとパソコンを打ち続けている。文字を慎重に選び、積み重ね、削り盛りを繰り返し、小説をなんとか自分の思い描く形にしていこうと四苦八苦している。
盆暮れも、ゴールデンウィークも、昨今のCOVID-19も、基本的には関係ない。忙しい時は、朝っぱらから夜の零時前後まで机にしがみついている。
といっても、大量に注文を受けているからではない。単に、書くのが遅いのだ。
この生き方を納得して選んではいるが、それでもふと、自分の来し方に我に返る瞬間がある。
まるで世捨て人そのものの生き方ではないか、と。こんな辛気臭い仕事をずっと続けている自分に、時々マジで泣きたくなる。確かに小説は好きだ。好きだが、それとこれとは別の問題だ。
ああ、クルマ友達と遊びたい、長水路で思い切り泳ぎたい……。
それら馬鹿っぽい誘惑をせいぜい月一に抑えながら、今もこうして書いている。
個人的には、このような巣籠りの暮らしには、眺めのいい部屋が不可欠だと思っている。たまにパソコンから顔を上げた時の、眼精疲労予防にもなる。心の慰めにもなる。だから、デビューした頃からずっと、見晴らしのいい部屋を事務所として借りている。
今もそうだ。
窓からは港と大きな橋と、そのはるか向こうに工場群のある半島がうっすらと見える。事務所の近隣には、ホテルや商業施設や、オフィスビル等が建ち並んでいる。夜の風呂上がりにソファに座り、それらの夜景をぼんやりと見遣る。
窓の灯りとは、それぞれの人間がそれぞれに生きて、この夜間にもまだ活発に動き働いていることを示す、何よりのシグナルだ。電気代、家賃、工場稼働費、オフィス賃貸料など、そんなものを支払うためにも、飽くなき経済活動を繰り返す。同時に、それだけでは生きられない。飯を食い、セックスをし、糞便を垂れて眠るという基本要素だけでは、ヒトは満足をしない。なんという強欲な生き物かと、私のことも含めて感じる。現代資本主義社会の中で、脳幹に電気刺激を受け続けるラットさながらに、常に自分の心をどこかで持て余し続けている。しかし、だからこそ窓の灯りは、見る者の琴線に触れる何かがあるのだとも感じる。
以前に、こんなことがあった。
友人のイラストレーターと飯を食っていた時の話だ。
「垣根さん、おれさ、元は田舎者じゃん、だからさ、若い頃にお台場から振り返って、東京の夜景をじいっと見ていたことがあるのよ」
「うん?」
「そしたらさ、『あぁ、この都会には、こんなにも高い家賃を支払ったり、でっかいローンを抱えて生きている人が、それこそこの窓の灯りみたいに、星の数ほどうじゃうじゃ居るんだ』って、つくづく感じた。むろんそうじゃない金持ちもいるんだろうけど、でもやっぱり大半はそうじゃないかと思うんだよね。で、それで儲けている不動産屋や銀行なんかも、多分その根本は同じでさ。そしたら、なんか訳もなく、涙がボロボロと出てきちゃったんだよね」
その感じは、なんとなく私も分かった。
しかし、詮無いことだ。私たちは既に、そのような二律背反の矛盾の中で生きている。ポイントは、そのうねりを自覚して生きられるかどうかの違いだろう、と感じる。