専業主婦の母は一日の終わりに早く一息つきたかったのだろう。六時には夕食が用意され、子供たちは九時に布団に追いやられる家庭でわたしは育った。中二で初潮が来て、弟とは別部屋になった。新しい部屋は3LDKの間取りで唯一、北を向いた四畳半だった。そこはもともと母の洋裁部屋で、窓からはわたしたちの住む団地と、ときどき富士山が見えた。
せっかく貰ったのに、弟の気配がない夜の部屋はなんだか怖くて、キッチンで母の働く音が聞こえるうちに寝てしまうことが多かった。夜更かしになったのは高一の夏、映画を観るようになってからだ。毎月数千円の小遣いを余らせて貯金するような、典型的な長女気質だったのが一転、手元のお金をすべて映画館通いにつぎ込むようになり、さらに親に映画代を無心する娘に変貌した。お年玉や、お盆に田舎でもらう小遣いも使い切り、それでもお金が足りなくてアルバイトを始め、それでもまだお金がなくて、名画座を渡り歩いては古い映画を観た。
夜中にテレビで放映される作品もかたっぱしから録画した。そうなると、足りないのはもうお金だけじゃなかった。昼間は月曜から土曜が学校だから、録画を観るのは帰宅後か週末だ。でも週末は映画館に行きたかったから、それらは平日の夜に観るしかなかった。ところが、うちは居間に一つしかテレビがなく、弟がバラエティ、父がプロ野球、母がニュースを観たあとようやく、わたしが映画を観る番が回ってくる。
居間の隣の部屋に襖一枚隔てて寝ている両親を起こさないよう真夜中、こっそりイヤフォンをセットしてテレビとビデオプレイヤーの電源を入れる。できるだけ静かにCMを早送りしながら、『去年マリエンバートで』や『コヤニスカッティ』を観た。音に敏感な母はときどき目を覚まし、襖越しに文句を言った。父を起こしたくないわたしはそれを黙って聞き流し、朝になってから母と喧嘩した。いま思うと、母が怒るのも無理はなかった。映画が終わって時計を見ると、大抵は午前二時を回っていたのだから。
相変わらず怖がりで、家族が寝静まった暗い家に一人でいるのは決して得意じゃなかった。けれどいったん午前〇時の壁を超えてしまうとそこには真夜中にしか感じられない自由のようなものがあって、若いわたしは一瞬でその虜になった。怖さ対策に深夜ラジオをつけ、自室で遅くまで一体、なにをしていたのだろう。
寝静まった世界で一人活動する優越感と背徳感がせめぎ合うなか、ときどきカーテンの隙間から外を眺めた。南向きの部屋の窓は林に面していたから、団地の他の棟が見渡せるわたしの部屋は特別だった。芝生や道路、団地を突っ切って流れる川の向こうには何十もの窓があって、その三分の二の明かりは両親が寝入るまでに消える。残りの窓も、午前一時を回るとほとんどが暗くなるが、わたしが部屋の電気を消しても三つか四つの窓はまだ明るいままだった。
その向こうにどんな人が暮らすのか、こんな時間まで何をして起きているのか、自分のことは棚に上げて眠い頭で考えたが、うまく想像がつかないまま最後はどうでもよくなって布団に潜り込んだ。誰かが起きているかどうかより、窓に明かりが灯っていることが大事だった。いま、世界にはわたしだけで、でも完全に一人ぼっちじゃない。そう思わせてくれる、窓の存在が。