十五年近く前になるが、国境の街と脱北ルートを見るために、中国と北朝鮮の国境沿いを取材旅行したことがある。中国の丹東市を皮切りに、瀋陽市を経て吉林省の延吉に向かう計画だった。同行者は、私の他に二人。いずれも四十代の男性と女性の編集者である。丹東市は、鴨緑江を隔てて北朝鮮の新義州市と国境を接しているし、延吉の隣、図們市は豆満江を隔てて北朝鮮と接している。
時期は三月初め。まだ豆満江は凍っていて、氷上を歩いて渡る脱北者が多い、という話を聞いて、私は凍った豆満江をぜひ見たいと思っていた。また、丹東市には、鴨緑江の幅が十数メートルしかないところがあって、北朝鮮の兵士が、中洲に置いた菓子や酒を取りにくるのを見物する、という観光もあった。川縁に売店があって、菓子や酒を売っている。中洲にそれらを置いて、物陰から見ていると、川の向こう岸から二人組の北朝鮮の兵士が現れて、飛び石沿いに中洲まで渡ってきて、ブツを持って行くのだ。先方もお約束を承知の、何ともおかしな観光ではあった。
しかし、今思えば、脱北ルートの取材など、大胆というか、かなり無謀な計画ではあった。実は、よく無事に帰ってきた、というような怖い目にも遭ったのだが、その話は別の機会にしよう。
私たちは、まず韓国は仁川から、海上ルートで丹東市に入った。船中泊である。船は日本で活躍していた船のお下がりで、「救命胴衣」とか「洗面所」など日本語のプレートがそのまま残っていた。私は子ども時代に、幾度か青函連絡船に乗ったことがあったので、もしや青函連絡船に使われた船ではないかと想像すると、懐かしくてたまらなかったものである。
鴨緑江のほとりにある丹東市には、有名な断橋がある。戦前に日本が架けた立派な鉄橋だが、二次大戦で爆破され、途中で寸断されている。その断橋の横には新しい橋が架かっていて、中国と北朝鮮間を、積み荷を積んだトラックが行き交っているのが見えた。国境の街は、交易の街でもある。
その橋の袂にあるホテルに泊まった。私の部屋は鴨緑江に面していたので、昼間は、新義州市の遊園地の観覧車のようなものや、船を操る人が見えたりして、なかなか面白かった。だが、夜になると、新義州市側は真っ暗で、そこに街があることなど、まったくわからなくなった。私たちは、当たり前のように、窓から光が漏れる明るい街に暮らしているが、川を一本隔てただけで、そうではない暮らしがあることを思い知らされて、衝撃的な光景だった。
先日、丸の内に用事があって出かけたが、林立する立派なオフィスビルの窓に、ほとんど明かりが見えないことに驚いた。以前の三割程度の人しか、会社には来ていないらしい。コロナ禍によるリモートワークのせいなのだろうけれど、これから変わっていくであろう都市の未来を思うとともに、ふと、あの夜の新義州市の暗さを思い出した。街が暗くなった時、私たちは何を大切にして生きていくのだろうか。そんなことを思った。
でも今、暮らし自体が少しずつ変わっていくかもしれない、と思っています。
すごく面白いと眠れなくなるので、読まなければならない本。