夏は過ぎたが秋と呼ぶにはまだぬくもりが残っている、そんな北海道では年に数日しかない心地良い季節の深夜、地震でたたき起こされた。テレビをつけて臨時ニュースを眺めていると、部屋の照明がゆっくり暗くなり、テレビとともにすうっと消えた。停電だ。朝になれば直っているだろうと思い、ベッドに戻ったが、再度起きたときにも電気の供給は途絶えたままだった。
外に出ると、信号機が消えていて警察官が手信号で誘導している。かろうじて営業しているコンビニの店内は暗く、客は懐中電灯やスマホの画面で照らしながら棚に残っているわずかな商品を確認している。青果店だけはいつもと変わらないすがたで営業しており、ひと袋買い求めたりんごがつやつやと輝く宝物のように見えた。
マンション八階の部屋まで外階段を上り下りし、手のひらサイズの懐中電灯をRPGの装備品のように肌身離さず持ち歩き、陽が暮れるとアロマキャンドルに火を灯す。情報を集めようにもテレビは当然見られず、スマホは充電が切れた。乾電池式のラジオで、落ち着いた声音のNHKアナウンサーが語るライフライン情報を聴きながら、早々に眠りに落ちる。暗い夜はあまりにも冗長で、寝る以外にできることはない。
翌朝、四時過ぎに自転車に乗って近所を徘徊した。生きている自動販売機はないか、営業している二十四時間スーパーはないか。結果は空振りだったが、早朝のすがすがしい空気が全身に沁みた。
二日目もわが家は停電のまま日没を迎えた。ベランダに出て外を見渡すと、周囲の区画はすでにあかあかと窓から灯りを洩らしていて、暗いのは私の住むマンションのある一画だけだ。
こんなにもよその家の灯りを羨望と嫉妬を込めて見たのははじめてだった。明るい窓の向こうで繰り広げられているであろう光景——湯気を立てるあたたかな食事、テレビから流れるお笑い芸人の声、浴室から洩れる甘いようなお湯のにおい、インターネットでだらだらと浪費する時間、ベッドに横になって読書灯のもと目で追う行間。日常だったものが遠く、二度と手に入らない輝きに思えてくる。道路を挟んだ向かいに建つマンションの窓から、団欒の声がいまにも聞こえてきそうだ。
結局、地震発生から四十時間ほどでわが家の電気は復旧した。人間が喜ぶいっぽうで、飼い猫は突然明るくなったことに驚いて隠れてしまった。たった四十時間で電気の存在を忘れたらしい。生まれたときから人間のそばにいても、動物には電気のない生活のほうが自然なようだ。
人間だって、当たり前に享受しているあれこれが儚いものの上に成り立っていること、日の出とともに起きて日没とともに眠る原初の暮らしは案外遠くないのかもしれないと気付かされた。
土砂崩れなどで多くの犠牲者が出たし、二年以上経っても農業を再開できないひとや、地盤沈下により家が傾いたままのひともいる。だけどエアポケットのような暗い夜や静かな朝を思い出すと、不思議な安らぎを感じる。
月にいちどぐらいはキャンドルの灯りで夜を過ごし、エレベーターを極力使わず外階段を上り下りしようと復旧直後は決意したが、すぐに文明べったりの生活に戻り、実行できていない。