窓の灯り、という文字列で思い出すのは、八年勤めた出版社の本社ビルである。自社ビルではあったがお世辞にも立派とは言い難く、むしろ老朽化していた。現に東日本大震災の際は、偶々外にいた社員たちから「周りの家より揺れていた」「倒れそうだった」と口々に言われた、そんな六階建てだ。建物内にあった階段はある日突然外壁が撤去され、雨の日は水浸しが常態化するようになった。どうして撤去したのかは未だに謎だ。
二十三歳の時にアルバイトで採用され、別部署に異動になるまでの四年、私はこのビルに通った。「毎日通った」と言えないのは、会社に寝泊まりして過ごした時期が長かったからだ。月刊誌の編集をしていたのだが、毎月二十五日頃から翌月十五日頃まで、週に一度帰るか帰らないかの生活を送っていた。朝方まで働き、オフィスの隅に段ボール箱を敷いて昼前まで眠る、そんな毎日の繰り返し。徹夜もしばしばしていた。
今思えばスケジューリングの拙さや怠惰のせいも多分にあったが、その頃は仕事に費やす時間、仕事について考える時間の長さで、未熟さをカバーしたかったのだろう。編集者の寝泊まりを容認する、前時代的な社風に甘えていた部分もあった。ライターにもデザイナーにも夜型の人が多く、それに対応するべきだとも思っていた。夕方に出社して朝帰る、夜行性と表現したくなる先輩も何人かいた。
私が思い出すのはそんな風に会社に寝泊まりしていた頃の、ある景色だ。
深夜、気分転換に食事に出たり、コンビニに行ったりした帰り。前の狭い道から本社ビルを見上げると、編集部のある三階から六階の窓全てから、灯りが漏れていた。
蛍光灯の冷たい光だった。
夏の暑い時期も、冬の寒い時期も、同じ光が古いビルから零れ落ちていた。
思い返せば殺伐とした景色だが、当時の私は少なからず元気づけられた。こんな時間でも、同じ建物に働いている人がいる。性格も価値観も違う人が、いい誌面を作るために議論したり、協力したり、時に言い合いになったりしている。黙々と進めている人もいるだろう。後輩の尻ぬぐいをしている人も、逆に先輩の抜けた穴を埋めようと必死になっている人もいるだろう。そう思うと頑張れた。会社に戻って朝まで働く気になれた。
四十歳を過ぎた今は、とてもではないがそんな不健康な働き方はできない。深夜に「天下一品」のこってりラーメンや「えぞ菊」の味噌バターラーメン、「ぼたん」の豚骨ラーメンを食べ、その後に煙草をバカスカ吸いながら仕事をしたら、現在の私は即座に体調を崩し、後々まで苦しむことだろう。後悔や反省も多々あるので、若い頃は良かった、輝いていたと感傷的に全肯定することもできない。
あの頃から十五年が過ぎた。先述したラーメン屋三軒のうち二軒は閉店してしまったし、私の携わった雑誌は全て休刊した。同じ編集部だった先輩、後輩も、一人を残して全員辞めている。働き方改革で会社での寝泊まりは勿論、遅くまで働くことも禁じられていることだろう。もう窓の灯りは消えて久しいに違いない。
だが、仕事で疲れ果てた時、迷いが生じた時、私はあのビルから漏れる光を思い出す。そして同じビルで私の何倍も働いていた人たちに思いを馳せ、今日はもう少しだけ頑張ろう、キリのいいところまで原稿を進めよう、と机に向かうのだった。