今夜も窓に灯りがついている。

「窓の灯り」をテーマとして人気作家の方々にリレー形式でエッセイを執筆いただく連載企画

Vol.83 一羽の窓

白井明大

仕事部屋の窓に目をやると、道を挟んだ向かいはもう首里城の敷地で、冬でもこんもりと木々が生い茂っている。大きく枝をのばしているのはアカギだ。一月にはヒカンザクラというピンクがかった桜が咲くほどで、一年のうちもっとも寒い時期でさえ、晴れた日はうららかな春か、あるいは新緑の初夏のよう。

メジロやヒヨドリが枝から枝へと行き交い、樹上の空をツバメがひらめく。青い羽根のイソヒヨドリは道沿いの電線にとまって、きれいに歌を聴かせてくれる。秋から春先にかけては、鳴き声をそのまま名付けたらしきクワックヮラーと島で呼ばれるシロハラが渡ってきて、林と歩道を区切る石垣から続く斜面で、落ち葉や下草をかき分け、エサを探している。

鳴き声といえば、ツバメほどの小鳥で、頭のてっぺんの毛が白いシロガシラのさえずりは、空に鈴の音がこだまするようにこころよく響き、道端で耳にしたとたん、足を止めて聴き入ることがしばしばだった。

鳥の声のたのしみは夜にもある。ほうほう、ほうほう。やわらかな息のようにも思われるやさしい声が、木々の暗がりをくぐって届いてくると、ほっと力が抜けて、心のこわばりがほどかれる。いちど、まだ宵の口に守礼の門の辺りを散歩していたとき、薄闇の空を背にして梢にとまっている、それらしき姿を見かけたことがある。

そのとき、なぜなのか、目が合ったような気がした。もちろん相手は夜目が利くのだから、ぼくの姿を現に見ていたのかもしれないけれど、視線を感じるというほどではなく、ただお互いの気配を確かめ合うような、そんな邂逅のひとときだった。

もしかしたら、ぼくが仕事部屋を明るませている深夜の窓の光を、道向かいの茂みから見つめることもあったのかもしれない。

小窓と道路一本へだてて、部屋にいるぼくと、塒(ねぐら)にいる声の主とは、ご近所づきあいをしてきたと言ってもいいだろうか。ひょっとして(あの人間、また夜更かししてる。もっと早起きして昼間のうちに働いとけばいいのに)なんて、茂みのなかで思われていたんじゃないか?

でも向こうの方こそ夜更かしというか、夜型なんだから、こっちの気持ちを汲んでくれていてもおかしくない。(わかるよ。みんなが寝静まった真夜中こそ、我々が気持ちよく生活できる時間だよね)とか。いや、やっぱり暗さあっての夜なのだから、こうこうと光を灯す部屋ははた迷惑な、ルール破りに違いない。

茂みの闇のなかでこちらに視線を向ける存在を思う。瞳を窓にたとえることはしばしばあるが、夜行性の鳥の瞳という窓に、もしも灯る光があるとしたら、それはいったい何だろう。

夜遅くまで電灯の明るさの下で営みを続ける人間を、野生の場所で息づく命がまなざす、その瞳に宿す光とは、ともすればぼくが忘れがちな〈自分も一個の命である〉という、あられもない真実を照らす生命の光だとは言えないだろうか。暗い夜の海を、ぽつんと航海する船に投げかける灯台の明かりのように。(ここだよ。きみのなかにもあるよ)と命のありかを示すまなざしの光が、一羽の窓に灯っている。そのあたたかみを心に留めながら、また夜更けまで物を書いて過ごしている。

Vol.83 白井明大

PROFILE

白井明大

詩人。1970年生まれ。詩集に『生きようと生きるほうへ』(思潮社、丸山豊賞)ほか。
静かな旧暦ブームを呼んだ30万部のベストセラー『日本の七十二候を楽しむ ー旧暦のある暮らしー 増補新装版』(絵・有賀一広、KADOKAWA)をはじめ、『希望はいつも当たり前の言葉で語られる』(草思社)、『歌声は贈りもの こどもと歌う春夏秋冬』(福音館書店)など著書多数。
新刊に、初の詩画集『いまきみがきみであることを』(画・カシワイ、書肆侃侃房)、活版印刷と手製本の詩集『三十三センチの時間』(Le phare poétique)がある。

COMMENT

「窓の灯り」というテーマを受け、エッセイに込めた思い
10年間の沖縄暮らしで実感してきた、この島の生命の息遣いを、少しでも伝えられたらと。
このエッセイを読まれた方へ
どうしても夜に仕事をしなくてはならない事情はあるものですから、どうか、なるだけご自愛ください。
ご自身の眠れない、眠らない夜に欠かせないモノ・コトは?
夜眠る前のひとときに、その日のできごとや、詩作に関することなど、思い浮かぶまま万年筆でノートに手書きすること。