仕事部屋の窓に目をやると、道を挟んだ向かいはもう首里城の敷地で、冬でもこんもりと木々が生い茂っている。大きく枝をのばしているのはアカギだ。一月にはヒカンザクラというピンクがかった桜が咲くほどで、一年のうちもっとも寒い時期でさえ、晴れた日はうららかな春か、あるいは新緑の初夏のよう。
メジロやヒヨドリが枝から枝へと行き交い、樹上の空をツバメがひらめく。青い羽根のイソヒヨドリは道沿いの電線にとまって、きれいに歌を聴かせてくれる。秋から春先にかけては、鳴き声をそのまま名付けたらしきクワックヮラーと島で呼ばれるシロハラが渡ってきて、林と歩道を区切る石垣から続く斜面で、落ち葉や下草をかき分け、エサを探している。
鳴き声といえば、ツバメほどの小鳥で、頭のてっぺんの毛が白いシロガシラのさえずりは、空に鈴の音がこだまするようにこころよく響き、道端で耳にしたとたん、足を止めて聴き入ることがしばしばだった。
鳥の声のたのしみは夜にもある。ほうほう、ほうほう。やわらかな息のようにも思われるやさしい声が、木々の暗がりをくぐって届いてくると、ほっと力が抜けて、心のこわばりがほどかれる。いちど、まだ宵の口に守礼の門の辺りを散歩していたとき、薄闇の空を背にして梢にとまっている、それらしき姿を見かけたことがある。
そのとき、なぜなのか、目が合ったような気がした。もちろん相手は夜目が利くのだから、ぼくの姿を現に見ていたのかもしれないけれど、視線を感じるというほどではなく、ただお互いの気配を確かめ合うような、そんな邂逅のひとときだった。
もしかしたら、ぼくが仕事部屋を明るませている深夜の窓の光を、道向かいの茂みから見つめることもあったのかもしれない。
小窓と道路一本へだてて、部屋にいるぼくと、塒(ねぐら)にいる声の主とは、ご近所づきあいをしてきたと言ってもいいだろうか。ひょっとして(あの人間、また夜更かししてる。もっと早起きして昼間のうちに働いとけばいいのに)なんて、茂みのなかで思われていたんじゃないか?
でも向こうの方こそ夜更かしというか、夜型なんだから、こっちの気持ちを汲んでくれていてもおかしくない。(わかるよ。みんなが寝静まった真夜中こそ、我々が気持ちよく生活できる時間だよね)とか。いや、やっぱり暗さあっての夜なのだから、こうこうと光を灯す部屋ははた迷惑な、ルール破りに違いない。
茂みの闇のなかでこちらに視線を向ける存在を思う。瞳を窓にたとえることはしばしばあるが、夜行性の鳥の瞳という窓に、もしも灯る光があるとしたら、それはいったい何だろう。
夜遅くまで電灯の明るさの下で営みを続ける人間を、野生の場所で息づく命がまなざす、その瞳に宿す光とは、ともすればぼくが忘れがちな〈自分も一個の命である〉という、あられもない真実を照らす生命の光だとは言えないだろうか。暗い夜の海を、ぽつんと航海する船に投げかける灯台の明かりのように。(ここだよ。きみのなかにもあるよ)と命のありかを示すまなざしの光が、一羽の窓に灯っている。そのあたたかみを心に留めながら、また夜更けまで物を書いて過ごしている。