学生時代、テレビの葉書集計のバイトに雇われた。現場は都心の狭い雑居ビルの一室。葉書は山ほど来た。世の中にはこんなに葉書があるのかと驚いたのを憶えている。
段ボール一箱五千円だった。箱には三千枚以上の葉書が詰まっていた。室内には段ボールがいくつも積み上げられていて窓辺にある事務机で集計用紙に年齢性別などを転記していく。
夜十時から明け方七時までの深夜帯を希望したのでおれはひとりでの作業となった。休むこともできるが箱が空かなければ金にはならない。今の様にコンビニもファミレスもネットですら浸透していなかった時代である。ラジオを薄く点けていたけれど話し相手もないひとりでの作業はしんどかった。
そんな時、よく目の前にあるビルに目が向いた。作業を開始する時には既に三分の一ほどしか点灯していない窓の灯りがどんどん消えていき、そして真っ暗になる。本当に都会の底におまえはいるんだぞと云われているような気がした。
ある時、七階辺りにいつもと違う灯りが出た⸺よく見ると観光土産にあるような小提灯だった。最初は気にも留めなかったが出る時と出ない時がある。そして提灯が灯っている時はブラインドの隙間から明かりが漏れていた。なんだろう……ある夜、おれは調べに行った。そしてビルのエレベーターに乗り、目指す階で降りた。
廊下はシーンとしていたが一室だけざわざわしていた。そして良い匂いがした。部屋の前に立つとストッパーが挟んである。小さなデザイン事務所だ。覚悟を決めてドアを開けると良い匂いが鼻を撲った。残業組らしい男達がネクタイを肩に引っ掛け、机や床にベタ座りしながら無言で丼に向かっていた。
「いらっしゃい」
タオルを頭に巻いた黒Tシャツの男が寸胴の前で手招きしていた。
「ここ何ですか?」と訊くと、
「カレー屋です。 友だちの事務所を借りて闇で残業カレーやってます。この辺りじゃ食べるとこないから」
一杯四百円。皿ではなくラーメン丼なのが面白かった。カレーはそれまで食べたカレーのどの味よりも違っていた。今では珍しくもないが異様にスパイスが利いていたのと、なによりもコクがあって後を引く苦みにも痺れた。長居する客はいない。みな食べると食器を戻し、ごちそうさんと帰る。おれはそれから夜食はそこで食べるようになった。
店主は芸人だという。公園で稽古をしているとホームレスにうるさいと叱られた。叱られたけれど仲良くなり、店主が夜食代わりに持って来た握り飯を貰うのを楽しみにするようになった。必死になって笑わせようとするが笑わない。
「下手なんでね。駄目なんです」
ところが握り飯を渡すと実によく嬉しそうに笑って喰う。自分は芸で人は笑わせられないけれど料理ならできる。次第に芸でなくても笑って貰えるのが嬉しくなった。そして無許可の〈残業カレー〉を始めた。客はみんな疲れた顔をして入ってくるが出て行く時は嬉しそうだった。満足げだった。バイトが終わるまで十回ほど通った。いつもおいしかった。
一度だけ店主が客を叱った。その客はカレーを食べず、漫画を読んでいた。
「食べないなら帰って」と店主は怒鳴った。そして「カレーはね。熱熱が良いんだよ!熱熱チンチンで食べなくちゃ!」そう、だからおれは今でもカレーを熱熱で食べるようにしているのです。