魂消る⸺と書いて、「たまぎる」と読む。元々は「魂切る」と書き、ひどく怯えることを意味する語であったが、時代を経るにつれ、強い驚きを表すようになり、やがて、「たまげる」と同じ字が用いられるようになったという。
斯様な本来の語義とは異なるが、わたしはこのことばに何処か安らぎを覚える。つい先まで確かに其処にあったはずのものが、繋ぎ止められていたはずの何かが、ふっと掻き消える瞬間⸺その風情を想うと、わたしの心はとても落ち着く。若い頃から「何処にも存在していたくない」という、我ながら奇妙に思える願望を抱いていたこととも、きっと関係があるのだろう。といってそれは、希死念慮とはまた違う。死にたいのではなく、ただ、何処にも居たくないのだ。己の肉体が体積や質量を伴った一個の身体として、この世界の一隅を占めていることが、時折、ひどく嫌になってしまうのだ。
だからであろうか。もう二十年以上も日課の如く続けている夜の散歩の道すがら、つい先まで点いていた家々の窓の灯りがふと消えるという場面に行き合うと、やはり、気持ちが安らぐ。マンションの窓々の内、たったひとつ残された宵っ張りの部屋の灯が消える一刹那や、オフィスビルのワンフロアが一斉に消灯する瞬間も良い。一軒家の灯りが落ちた後、窓辺に立った猫の瞳ばかりが輝いている様などは堪らない。
斯様な光景を目にした時、わたしの胸に浮かぶのは、人の魂が束の間、静かな眠りに就き、この世から姿を消すというイメージだ。
何故と言って、光とは魂の在処を示しているものにほかならない。その光が孕んでいるのが、幸福であるのか、悲哀であるのかは与り知らぬが、ただ、魂が其処に在るということだけは確かだ。
例えば、芥川龍之介の『袈裟と盛遠』のラスト、己を殺しにくる盛遠の到来を前に、袈裟は燈台の火をふっと吹き消すが、想い人の手にした刃が閃くまでもなく、彼女の魂はその時点で既に消えている。
こんなことを書くと、「いや、単に出がけに消し忘れただけで、其処には誰も居やしないかもしれないぞ」なぞとひねくれたことを言う人もいるだろう。しかし、魂の在り処とは何も、肉体の所在とイコールではない。電気を消すのも忘れるほどに急いでいる時、あるいは、何処か虚ろな心持ちでいる時、人の魂は“その場”に置き去りにされる。早く帰りたい、此処を離れたくないという“思い”が、身から辷り出してその場に留まるのだ。別の言い方をするならば、「生霊」、あるいは、「遊離魂」。
唐突にオカルトめいた単語が出てきたなと驚かれるかもしれないが、魂の遊離という現象は古くから怪談に限らず、詩歌や文芸作品の内にいくらでも発見できる。殊に有名なのは、『後拾遺和歌集』に見られる和泉式部の歌であろう。
“物思へば沢の蛍も我が身よりあくがれ出づるたまかとぞ見る”
蛍光灯やLED照明といった無機物による光と、蛍という生物の発するそれという違いこそあれど、やはり、魂は光を伴うものとして古くから考えられていたということは見て取れる。
斯様にして置き去りにされた魂が肉体と再びの合一を果たすこと。そうして、すべての魂が、眠りという形で現世からの束の間の消滅を迎えられることを、わたしは願う。すべての魂に安らぎあれ、と。