(きむら・そうしん)
茶人。1976年宇和島市生れ。神戸大学法学部卒業。少年期より裏千家茶道を学び、97年に芳心会を設立。京都、東京で稽古場を主宰しつつ、テレビ番組、展覧会等の監修を手がける。08年、日本博物館協会顕彰。11年、JCDデザインアワード金賞(茶室・傘庵監修)。12年、宇和島市大賞。著書に『茶の湯デザイン』『千利休の功罪。』(ともに阪急コミュニケーションズ)など。
「茶の湯」は、日本を代表する文化のひとつですが、その他の伝統文化――例えば能や狂言、花、などと比較すると、茶の湯には特異な点があります。それは、必ず相手がいる、ということです。能や狂言は神楽にルーツをもつ神事であり、花も神仏に奉ることからはじまりました。いずれも本質的に相手は「人」ではありません。対照的に、茶の湯というのは、2人以上の人間が、それも主人と客という真逆の関係があって成立するものなのです。そこが、もてなしの文化といわれる所以です。「あなたのために」、この一言をよすがに、全てが成就する、日本で最も古い、コミュニケーションデザインの文化であると言えます。
茶の湯が求めるもっとも大きな成果というのは、目に見える具体的な形や、飲み食いしたものが美味しかった、という事実ではありません。求めるのは、ひとつの場所で、ひとときの時間をともに過ごした両者がかもしだす、目に見えない空気や一体感です。そこはかとなく漂う気配のために、主人はお茶や道具、茶室、その他ありとあらゆるものを誂える。それがご馳走です。
空間とは、人の生活や、人の息づかいがあって初めて完成するものだと、私は思っています。建物だけがかっこいいのでは駄目。人が使わないもの、人が使う前が最もかっこよく、使うとその魅力が失われていくようなものを、我々は必要としません。基本となるのは、座って半畳、寝て一畳の、この空間です。そこを中心として、渦を巻くように外側へ意識を広げていき、もてなす人物のことを核に据えた空間を考えます。
だからこそ、その日その場に応じて用意する道具が変化する。集う人が変われば答えも変わります。初めにデザインありきではなく、初めに相手をもてなす心があり、そこを起点に空間がつくられていくのです。
茶室のデザインは、シンプルであり、ミニマムであり、素朴で清潔感があるようにつくり込まれています。これは、空間のみで見ると、がらんどうで、もの足りなく寂しいものとして映ります。しかしそうしたあえてつくり出された余白により、空間はもてなす相手に応じて表情を変化させることができるのです。完成された、完全無欠の建築では、そのような融通無碍な懐の深さは発揮されません。
あらゆる茶室は、どれも似たりよったりに見え、記号化されているとも言えますが、だからこそ、そこに使い手が自由に色をのせていくことができます。近現代の建築家の方々が、さまざまな新しい茶室を、自分なりにデザインしてつくっていますが、その人がその場で使う際にしか、機能しないものが多いのも事実です。もてなす相手によって色を変えることができる、そこがパターン化された茶室の優れた点です。
また、全体として見ると簡素ですが、細部には非常にきめ細やかな気配り、こだわりが見て取れます。茶の湯とは、極めて日本的な、ディティールが豊な文化です。茶碗ひとつをとっても、職人の強いこだわりが込められています。
西洋的な文化というのは、日本文化が太刀打ちできないほど、全体の構造を作り上げる論理が豊かで力強い。それと比較すると、日本の論理は非常にもやもやとして、ゆらゆらとゆらぎ、とりとめのないものに思えます。だからといって論理性がないわけではありません。全体を支配する強い枠組みはなくとも、一つひとつの豊かなディティールがあり、それぞれが柔らかな論理で結ばれているのです。合理的なものごとと、非合理的なものごとが華麗に混じり合い、ディティールに対するこだわりと、全体としての曖昧さが許容されているものが、日本の建築であり、茶の湯なのです。「いい加減」が「良い、加減」ということではないでしょうか。
「ブレーン」2012年8月号より